音楽というものが私の身の回りにあったのはいつからだろうか。

母の歌う童謡だっただろうか。カーステレオから聞こえる井上陽水だっただろうか。【私は】【音楽が】【好きだ】と明確に認識したのは、いつのことだったろう。

小学校の頃、教育テレビの歌のお姉さんになりたいと口にしたことを覚えている。でもきっとそれは一瞬の憧れでしかなく、その後は声優だったり、通訳だったり、高校の頃は演劇の道を目指そうと思った。今思えば、すべて”声”を使う仕事という共通点はある。

演劇は一度に関わる人の数が多すぎて、人間不信だった当時の私には困難な世界だった。音楽ならたった数人で成り立つことがある、という発見は救いだった。

”ジャズを歌いたいからアメリカに行って勉強します!” と17-18歳のころの私はそれらしく言ったけれど、本当は窮屈と感じていた日本からなんとしても逃げ出したかっただけだった。

19歳で脱出したまま、演奏活動をしながら働きながらのアメリカ生活を送る中で、素晴らしいジャズに出会い、ブラジル音楽に出会い、今日本に戻ってきて新たに日本古来の音楽にも巡り会った。

でもその過程で、【音楽なしでは生きていけない】ではなく、【音楽がなくても、歌えなくても、生きることを選ばなければならない】と自分を納得させることが必要になった。私にとって『音楽』は、何度でも完全に私から立ち去る愛しい恋人の様な、準備が整った時だけ寄り添ってくる光のような存在だった。

そして今、私の心を動かすのは【生きている営みによって紡がれた音楽】だ。奄美のシマ唄もしかり、ブルースもしかり。私はがむしゃらに生きること自体は得意だったと思う。でも暮らすことや営むことについては、ここ最近少しだけ分かってきたに過ぎない。だから音楽だって、本当にこれからなのだ。

一つだけ言えることは、生まれた場所でも、アメリカでも、ブラジルでも奄美でも、音楽がたくさんの扉を開き、縁をつないでくれた。私は、もちろん好き好んでではないが、ただ必死に生きる中でたくさんの縁をぶった切り、一度開いた扉が閉まるのに気づかないなんてことを何度も繰り返しながら今までやってきた。

生きることと音楽と人とのつながりは、これからの私の人生の中で共存できるのだろうか。そうであって欲しいと願うのは欲張りなのか。

なにせそれぞれすべてが、膨大な時間を要することだから。

ゆっくりとした時が流れているような場所で、いつでも駿足で過ぎ去っている今を感じながら、そんなことを思う。